2013年10月4日金曜日

大学院時代〜大学院中退

ギリシャへ
必死に勉強して大学院に入ったものの、その先の進路に希望をもてず、かといって他の進路がない…という状態の私に、一時的に海外で過ごすという選択肢を与えてくれた指導教官の小林先生には、本当に申し訳なかったですが、帰国したら大学院は辞めることをほとんど決めていました。

そこで、飛行機はオープンチケットを手に入れ、その合宿が始まるずいぶん前にギリシャ入りすることにし、合宿後も長く滞在しました。帰国したら退学して古着屋とかやれたらいいなぁなんてぼんやりしていたところ、アテネでひとりの男性に出会いました。それが後に、今15歳になる子どもの父親となる人なのですが、そのときには、日本での生活に希望がもてなかったので、ギリシャで結婚して子どもを産むという人生の展開がとてもリアルで手応えのあるものに思え、唐突ですが、結婚してギリシャで暮らそうと決めました。

当時24歳、結婚というものがどういうものか、よく考えもせず決断した自分を今からみると本当に笑えないほど恐ろしいです。当然、日本にいる両親は、そんな急展開を許すはずもなく大反対。でも、そのときの私にとって、この決断は、日本で違和感を感じながら未来の見えない生活を送るよりもずっとリアリティがあり、誰かと一緒になって家族をもつということがとても尊いことに思えました。また、自分のからだをつかって妊娠・出産することは、からだオタクの自分にとって、どんな研究よりも興味深く、やってみたい、という気持ちのほうが、不安よりもずっと勝ってしまいました。今だったら、そんな自分を、世間知らずで甘い!と呆れますが、そのときは、守るものもなく、その道を信じて疑いませんでした。合宿を終え、その人としばらく過ごし、妊娠しました。

出産、育児は甘くなかった

いったん帰国し、出産は日本ですることにしました。そのときは出産、育児を甘く考えていて、落ち着いたらギリシャに帰ろう、くらいに考えていました。しかし現実は甘くなかった。出産が、こんなにも体にダメージを与えるなんて、そして、新生児の世話が、こんなに手がかかり、睡眠すらろくにとれない生活になってしまうなんて…。ボロボロの体をひきずりながら、まだ自分では何もできない細くてふにゃふにゃな新生児を抱え、傷ついた会陰と、擦り切れた乳首の痛みに悲鳴をあげていました。

助けてくれた友人たちは、私が学部時代からつきあいのあったシングルマザーや、踊りを一緒にやっていた仲間でした。産褥期は台所に立ったりせずに床について休むことが必要だということを知っていた友人は、交替でうちにご飯をつくりにきてくれて、洗濯や新生児の沐浴も手伝ってくれました。大学院は、結局、中退しました。

本調子でないからだをひきずりながら、赤ちゃんの生活リズムに翻弄される毎日のなかで、ギリシャにいる子どもの父親のことは、思い出す余裕もなくなり、かかってくる電話も煩わしく感じるようになってきました。一番大変な時期を共有できなかったことで決定的に自分の気持ちが離れてしまいギリシャで生活するというビジョンもリアリティを失っていきました。

助けてくれる友達や赤ん坊の成長に救われる、その一方で、結婚を約束したのに気持ちが離れてしまったことの罪悪感で日々葛藤していました。休日に外出すれば、仲のよさそうなカップルと赤ちゃんの3人家族ばかりが目につき、母子が集まる健診や予防接種にでかければ、赤ちゃんを連れて来ている母親たちの薬指に光る結婚指輪ばかりが目につきました。自分以外のすべての人が、順風満帆にそして正しく生きているように見えました。

そんな、ただでさえ心がモヤモヤした状態であったのに加えて、産後の心身特有のしんどさがありました。出産によるダメージと、睡眠不足や授乳や抱っこによる体への負担により、常に体が不調な状態でいると、精神的にも落ち込みやすくなることを自覚しました。

そこで、まずは、この体が元気にならないと!ということで、産後のサービスを探したのですが、これが見事に、ない。出産前は、やれ健診だ、やれ母親学級だと、出向く機会のあった病院や保健センターも、いざ子どもが産まれたら、乳児健診、予防接種など、すべて子ども対象なのです。乳児を健診に連れて来る母親の健康については、だれも面倒をみないという現実を知りました。

2013年10月3日木曜日

大学時代1

7期目となるマドレボニータの新年度10/1から書き始めたこの「マドレボニータの軌跡」シリーズ、15年の歴史を語る前に、そのルーツとなる自分のバックグラウンドを高校時代までさかのぼって書いてみています。3日目の今日は大学時代のことを書きます。今おもいかえすと、大学時代に興味の赴くままに勉強してきたことが、マドレボニータの活動のそのまますっごく役立っている!めぐりめぐって、好きなことを仕事にできている…

なんて、なんて、今だから言えることであって、ここまでの道のりは、そんなに誉められたものはありません。東大の文Ⅲに入ったときには、進路はまったく決めておらず、とにかく自分の関心の赴くままに行動していました。蓮見重彦先生の映画の授業や、柴田元幸先生や佐藤良明先生のアメリカ文学やカルチャーの授業、内野儀先生の演劇の授業や、文化人類学の船曳健夫先生のゼミなどで、様々なスタイルの芸術に触れ、身体をつかった芸術や、人間の心と体のつながりに関心を持ちました。

大学の外では、ワハハ本舗のクリスマス公演(今はなき新宿のシアターアプルで)のバックダンサーをやったり、麿赤児ひきいる大駱駝艦の夏合宿に参加したりもしました。この合宿での経験は、自分自身の「体への関心」をより強めることになり、さらには、今でもマドレボニータの重要なテーマである「体と心の関係」への興味にもつながっていきました。

3年生から文学部の美学芸術学科に進学し、卒論のテーマは「身体論」。大学の外では、ダンスやヨガ、ヒーリングなどのワークショップに参加し、体を動かす面白さ、それによって変化する心の状態にも強い関心を引き続き持ちました。

卒業後の進路として、新卒で企業に就職するという選択肢がどうしてもしっくり来ず、もっと体のことを研究してみたいと、駒場の生命環境系の身体運動科学という科の大学院を夏休みに受験しました。入試問題をとりよせたのが5月、試験本番まで4カ月しかなく、それまでに、独学で解剖学や運動生理学を勉強しなければなりませんでした。あと、英語もありましたが、それは学部の入試よりも簡単だったので、受験勉強は専門科目に集中させました。

まずは、本郷通りの医学系の本屋さんで専門科目の教科書を買い込みましたが、とてもマニアックな分野なので、大学受験のときのような問題集が売っていない…。しかたがないので、ノートに自分で問題をつくって、独自の問題集をつくり、それを何度も繰り返して、知識を身につけていきました。筋肉や骨の解剖図については、トレーシングペーパーで解剖図をトレースして実際に手を動かしながら学びました。部屋中に、筋肉や骨の絵が書かれた紙を貼り、いつも目にしながら覚えました。そんな私の部屋に遊びに来た友達は、解剖図だらけの私の部屋をみて、半笑いで絶句していましたが…次の瞬間には「本気なんだね」とねぎらってくれました。

このときに身につけた解剖学や運動生理学の知識は、産後プログラムを開発するときにもおおいに役立ち、めぐりめぐって今の活動にも活かされています。

大学院での挫折

大学院に進学し、将来は研究者になるという進路(東大の体育教師になって、体育の授業をもっと面白いものにしたい、なんて野望もありました)をイメージしていたのですが、修士1年めで早くも挫折を味わいました。心と体のつながりに関心があるといっても、豊富な現場や経験をもっているわけでもなく、その関心は研究者になるにはあまりにも漠然としすぎていて、その程度で修士論文をまとめるのは虚しく感じました。また、研究が何かのために役立っているという手応えも感じられず、そうやって思い悩んでいたら、虫垂炎になってしまいました。そして腹膜炎が併発してしまい、1カ月くらい入院していました。からだは正直。自分が思い描いていたキャリアが早々に「違う…」となり、だからといって別の道も思いつかず、本当にどん詰まりでした。

そんな私を見かねた指導教官の小林寛道先生が、ギリシャに行ってみない?と声をかけてくださいました。少し日本から離れて、頭を冷やしてきなさい、と。ちょうど、オリンピックスタディをテーマに世界中から大学院生が集まり、オリンピックについてディスカッションをし、研究発表をおこなうという2カ月の合宿があり、その参加者を募集しているというのです。「せっかく英語も話せるんだし」と言っていただき、参加させていただくことにしました。実は、卒論でも、東洋と西洋の身体観の違いやその歴史的背景、またオリンピックがそれに与えた影響、といったトピックも扱っていたので、その論考を携えて、日本から参加しました。

そこから、思いがけない方向に人生が展開していくのですが…

(つづく)

2013年10月2日水曜日

高校時代2

高校時代のこと、もう少しだけ、書き残しておきたいと思います。

昨日はちょっと優等生的すぎたので、暗黒面もすこし。世界平和というAFSのビジョンに感動して、という昨日の話にウソはないのですが、私の留学のもうひとつのモチベーションは「日本の高校から離れたかった」というのがありました。

偏差値の高い公立の女子校での、テスト前に「私、全然勉強してないよーどうしようー!」(ほんとはめっちゃしてる)とかいって牽制しあう感じとか、「あの人は社会2科目勉強してるからぜったい東大目指してるよ」(ほっとけよ!)みたいな噂話とか、なんだか自尊心とコンプレックスの入り交じる女子特有の腹の探り合いみたいな会話に、ちょっとうんざりしてしまって、こういうのがない世界ってないのかなぁと思ったのが海外の高校に留学する動機でもありました。

オーストラリアでは、ホストファミリーをチェンジしたりという事情もあり、思いがけず3つの高校を経験しました。ミッション系の女子校に2ヶ月ほど、公立の女子校に3ヶ月ほど、そして、私立の共学に5ヶ月ほど通ったのですが、やっぱりどこへいっても日本に比べたら女子がサバサバしていて、気持ちがよかった。勉強とか成績に対しても、ずいぶんとおおらかで、人の成績はそれほど気にしないし、みんなひとりひとりが自分のやるべきことをやっている、というかんじ。そういう空気はとても私好みでした。

帰国してから、1学年下のクラスに編入して高2の3学期からやりなおしたのですが、B'zのヘッズを名乗るコが私の前の席に座っていて、休み時間には、始まったばかりで大人気だというアニメのちびまるこちゃんの主題歌を「ぴーひゃらぴーひゃら」って口ずさんでいて、だいぶカルチャーショックをうけました゚゚(´O`)°゚。

オーストラリアではDeee-LiteとかThe B-52'sとかが流行っていて、彼らのカッコいいミュージックビデオがテレビでしょっちゅう流れていたのですが、日本の田舎の高校では知ってるコはほとんどいなくて…。まだネットとかなかったしね…。それにしてもピーヒャラピーヒャラにはびっくりしたなぁ…。でも席が近いというだけのご縁で、とっても親切にしてもらい感謝しています。

 


ま、ぴーひゃらぴーひゃらは、全然かまわないのですが、そんなやりなおしの高校2年生の3学期、同学年の友達はもうすぐ卒業という時期、放課後に図書館で勉強していたら、以前のクラスメイトが「帰ってきたんだ〜」と話しかけてきてくれて、何か言いたそうにしていて。そして、推薦で●●大に受かったということを自分から言って来て、びっくりしました。ほかにも、誰々ちゃんがどこ大に受かったとか落ちたとか、そういう噂話が飛び交っていて、私が苦手とする、あの女子校の空気、やっぱり健在だった…

周囲が全員1学年後輩という環境のなか、高3の1年間は、なんとなーくみんな私に気をつかっているのを感じつつ、大学受験の勉強を脇目も振らずやっていて、友達とつるむこともなく、本当に愛想のわるいマイペースな生徒でした。

一方で、まだルーズソックスが流行っていなかった日本で、オーストラリアで覚えたルーズソックスの履き方を、ちょっとだけその高校のなかだけで流行らせたりは、しました。あと制服のスカートも膝上くらいまでは切りました。

結局最後まであんまりなじめなかった日本の高校。入学時の同級生より一年遅れで卒業して、大学に合格したとき、本当にびっくりしたのは、あまり喋ったことのなかった元同級生から電話がかかってきたり、話しかけられたりしたことでした。帰国してから時間がなかったので受験は東大の文Ⅲに絞って集中して勉強したのですが、受かったら、予想以上の反響があり、面食らいました。

東大は文系でも2次試験で数学があり、社会も地理、日本史、世界史のなかから2科目選ばなければならないのですが「数学もやったんだぁ」「社会は何と何で受験したの?」とか、それほど親しくなかった同級生に訊かれて、本当にびっくりしたというか、なんというか、苦笑しながら、天を仰いでしまいました。

というのも、私は留学前は全然、成績優秀者ではなく、全く目立たない生徒だったので…「よく1年でそこまでやったよね、成績そんなによくなかったあなたが、いったいぜんたいどうやって?」というようなニュアンスで興味本位で話かけてくるのがもう、みえみえというか…。そういうのにも、心底うんざりしてしまったのでした。

…と、今日は、だいぶ、ぼやきばかりになってしまったので、最後にいい話をひとつだけ。

オーストラリアに発つ前のオリエンテーション合宿で、新たに覚えた言葉がありました。
それは「判断留保の能力」という言葉です。合宿中に、何度も出て来た言葉でした。

これはあとで知ったのですが、哲学の用語だったのでした。
"suspension of judgment“「判断を留保すること」

自分と異なる文化や価値観に触れたときに、判断を急がずに、それをいったんニュートラルに観察するということが求められる、というのは、実際に海外で暮らしてみてリアルにわかりました。

ただ、高校生の当時は、本当にその「判断留保の能力」が身に付いたのかどうか、自分では自信がありませんでした。

でも、それから20年以上経って、自分のたどってきた道を振り返ると、「常識」や「慣例」を疑う、という姿勢は自然と徹底していたように思います。

「普通はそういうものでしょ」と一般的に言われていることを、「そんなもんだよね」と妥協せずに、「そうなのかな」「そうでもないんじゃない?」「てか、普通ってなんだよ?」と、しつこく追求してきたともいえます。


2013年10月1日火曜日

高校時代

本日からマドレボニータは新年度。これから決算やら総会やらで昨年度のまとめ的なことはまだ残っているのですが、暦のうえではディッセンバー…じゃなくて、暦のうえでは年度始め…というわけで、心機一転、前からやろうとおもっていてなかなか手をつけられていなかった、マドレボニータの軌跡を綴るというのを始めたいとおもいます。ゆくゆくは本にまとめられたらと思ってるのですが、本の企画としてやろうとすると煮詰まるので、まずは荒削りでもブログでサクサク(とはいかないかもしれないけど)書いていきたいとおもいます。まずは高校時代にさかのぼって…

17歳の留学生
実は、この話を公でする機会は少ないので、身近な人でも知らない人が多いと思うのですが、マドレボニータ活動のルーツをたどると、17歳までさかのぼります。今の自分に大きな影響を与えているのが、高校2年の3学期から1年間、AFS交換留学生としてオーストラリアで過ごした経験です。ティーンエイジャーの男の子の母となった今でも、自分のティーン時代といまの自分は地続きで、その頃のことはリアルに覚えています。

今でも折りに触れて思い出すことがあります。それは、留学前のオリエンテーション合宿で出会った、あるフレーズです。これは、12ヶ月の留学生活のなかで経験した何よりも、大事なことだと今は思っています。

「あなたは、草の根で交流する留学生が増えれば、純粋に世界が平和になる、なんてナイーブなことは、まさか考えていませんよね」
というようなものでした。(正確な文言は覚えていないのですが…)

そう、AFSのルーツは、第一次世界大戦が勃発した1914に、パリにいたアメリカの青年たちが、傷病兵を病院に搬送する「野戦奉仕団」(American Field Service)の活動を始めたのが始まりで、その活動をしていた彼らが、「傷病兵のケアすることも必要だが、そもそもこんな戦争をなくす取り組みをしなければ」といって1947年に始めたのが、高校生の異文化体験のための交換留学という取り組み。それが今のAFSに続いているわけです。今では、そのネットワークは世界で50カ国以上に広がっています。つまりAFSが目指すのは「世界平和」なのです。

AFSの留学と一般の私費留学の違いは、AFSでは語学などの特定の技能を身につけるために留学するのではなく、「異文化で生活する」という体験を通して、人としての柔軟なあり方、異文化を受け入れる姿勢、といったものを身につけるのが目的というところ。

私は16歳の時にこのAFSのルーツの話をきいてすごく感動し、自分の得のために留学するのではなく、世界の平和のために自分にも具体的にできることがあるのかもしれないという、そういう世界があるっていうことを初めて知り、ジョンレノンの唄みたいに、戦争のない世界をimagineしたいと思ったものでした。

頭のなかには、ジョンレノンのイマジンのあのピアノのイントロが流れてました。すっかりトウのたった今なら、こういう話をするときに「たとえナイーブ(幼稚)だと言われても」なんていう枕詞をつけてしまいますが、当時はほんとうに若かったので、そんな枕詞も必要ありませんでした。


さて、そのオリエンテーションのテキストはおそらく全世界で使われているもので、英語で書かれていました。当時の自分には、その意味がどうしてもわからず、英語力が足りないからかな…なんてぼんやり思っていました。が、同時に、自分が留学生として草の根で交流すること以上に何があるのか、わかっていませんでした。

そして、実際に1年間の留学を終えて、自分なりの手応えをもって帰国して、それでも、あのテキストに書いてあったことの意味はわかっていませんでした。

アジア人として受けたあからさまな人種差別、思いがけず3つの高校に通ったことで得た経験、ホストファミリーをチェンジしたこと、いくつもの家庭にいろいろなかたちでお世話になったこと、留学生である自分の存在が学校内の人種の壁をすこし崩せたこと、などなど留学先で経験したかけがえのないできごとひとつひとつ振り返るといくら字数があっても足りないくらいで、ひとつひとつが自分の血肉になっていると自負しますが、そのあたりのことはまた別の機会に書くとして、それでも、あのフレーズのことは、すっかり抜け落ちていました。

オーストラリアから1991年の1月に帰国して早々に同学年の友達は卒業し、私は1年下の学年に入り直しました。1年間の受験勉強を終え高校を卒業し、大学生になってからはAFSの派遣のボランティアでこれから留学する高校生のお世話をしたり、御殿場キャンプ(というインターナショナルキャンプ)のボランティアで日本に留学している高校生と国内の高校生のお世話をしたりしていました。が、まだ、しばらくそのテキストのことは忘れていました。

そして、大人になって、マドレボニータの活動を始めて、数年かかって、やっとその意味がわかったのです。

草の根の国際交流はほんとうに有意義なことだけれど、そのような経験ができるのは、進学校の女子校でもひと学年に1人か2人。当日、恥ずかしながら自分では自覚していなかったのですが、本当に恵まれた人の特権だったと思います。数として留学生が増えたところで、いつか世界が平和になるなんていう考えは、やっぱりナイーブすぎると今ならわかります。世の中にはその何万倍の人が暮らしているのですから。

10代という二度と戻らない若き日々に、物理的、精神的に適切なサポートを受けながら、異文化を体験し、異文化における自身の判断留保やコミュニケーションの難しさを身を以て知り、もがきながらも一年間すごすという経験は、日本にいたら絶対にできないこと。思い返せば返すほど、本当に貴重な経験をさせてもらいました。

先ほど引用したそのテキストが言わんとしていたことは、その貴重な経験を、若き日のよき思い出として自分だけのためにとっておくのではなく、その経験をほかの誰かのためにも活かして、世の中をすこしでも平和に導くべく、世に出てリーダーシップを発揮してほしい、という意味だったのだと、後に理解しました。

これはノブリス・オブリージュの考え方にも近いかもしれませんが、本当はこういうことは、自分で大きな声で言うことではない…と思いつつ、それでも、このことには常に自覚的であるべきと思い、こうして文字にして綴っています。

実際、AFSの卒業生には、アナウンサーの安藤優子さんや歌手の竹内まりやさん、国際ジャーナリストの小西克哉さん、前広島市長の秋葉忠利さんなど、ほかにも名前を挙げきれないほど、世界の平和に貢献するリーダーを輩出しています。私が大学で最も影響を受けたアメリカ文学の佐藤良明先生や、私のメンター的存在である世界のNPOリーダーを育てるシアトルのiLEAPという団体のイズミヤマモトさんもAFS卒業生です。

1998年に最初は一人で始めたマドレボニータの活動を、2007年にNPO法人化し、より公共性の高い活動にしていこうと努力しているのも、高校生のときのその経験と、大人になってからの気付きがあったから、というのがあります。

興味の赴くままに行動した大学時代へ
 …とここまで書いてきて、なんだか、ちょっと、優等生的すぎるわ…ちょっと美化しすぎじゃないかな…と心配になってきました!なんだかこうやって高尚なことを言っていますが、それは、いま振り返ってカッコつけて言っていることでもあり、実際にここまでの道のりには、もっと暗黒面もありました。それはそれでどこかで書きたいと思っていますが…

そんなわけで次回は、進路もなにも決めておらず、興味の赴くままに行動していた大学時代のことを書きたいと思います。今、思い返すと、その頃の自分も、今につながっているのですが…

(つづく)

2013年1月27日日曜日

女子少年院視察レポート


今年は、息子の中学校生活最後の年、PTAの委員を決めるアンケートに
「誰もいなければやります」に ○ をつけたら、見事にやる人が誰もいなくて、
今年は、地域委員というのを引き受けました。
ちなみに、1年生のときは、役員選出委員ていうのをやっていました。

地域委員というのは、学校と家をとりまく地域に関わる色々なお仕事をする係で、
運動会とか、お祭りのパトロールをしたり、防犯プレートを配布したり、
地域のお祭りに協力したり…
各クラス1名の委員が3学年ぶん9人で分担してやってます。

その中で、数ヶ月前に、各学校から1名だけ参加できる、
杉並区の地域専門委員会という研修に参加させてもらって、
それがとてもインパクトあったので、その報告書をこちらでも。

それは、都内にひとつだけある、女子少年院の視察で、
うちから自転車で30分くらいのところにあるその施設を、
視察させてもらいました。
PTAに提出した報告書を以下、ペーストします。


 地域委員3A 吉岡
実施日2012-10-16

都内唯一の女子少年院
全国に52庁ある少年院(女子の施設は全国に9つ)のうち、都内に1つだけある女子少年院の視察に行ってきました。定員100人の施設に、現在は25人の女子が生活しているそうです。一般短期処遇と長期処遇があり、その施設ではそれぞれ5カ月、10カ月の処遇とのこと。訪問した愛光学園は、いかにも「矯正施設」といった厳めしさをなくし、建物全体を暖かみのあるデザインにしているとのこと。サイコドラマ用の舞台のある部屋や、箱庭療法のための部屋、癒しの空間である中庭など、設計にはさまざまな工夫が凝らされていました。

施設内の見学
施設内を案内していただくにあたり、撮影NG、荷物はすべて会議室に置いてくる、知っている子が万が一いても声をかけない、といった注意がありました。子どもたちが授業を受けている教室や、体育館、プール、中庭、面談室、サイコドラマの部屋、美容室(ここで1月に一度髪を切る)などを巡りました。

施設の構造
中庭は、施設の建物に囲まれた中央にあり、外からは見えないようになっていて、そこで先生と一緒に庭の掃除をしたりしながら面談をしたりする。かしこまらず、こうして作業をしながら話をすると落ち着いて話ができるそうです。これはあくまでもひとつの例で、運営には様々な工夫がされているようでした。この施設は、他の地方の少年院とちがって街中にあり、校庭は隣接するマンションから丸見えのため、校庭が使えないそうです。唯一、朝礼だけは、その校庭に出て、サンバイザーをかぶってラジオ体操をするそう。基本、保健体育はプールと体育館をつかうそうです。

施設内での活動
矯正施設とはいっても、15〜16歳の子ども。多くの場合、問題は「本人」というよりも、保護者との関係にあることが多いようです。施設では、生活指導、職業指導、教科教育、保健体育、特別活動の5つの柱で活動しているそうですが、表向きにはそうなのですが、実際に、一番肝となるのは、人間関係(とくに親との関係)の調整だそうで、面会の調整や、面談時の親へのはたらきかけなどに相当なエネルギーを投入されているようでした。

入所の期間
短期で5カ月、長期で10カ月というのは、長いようにみえて、あっという間だそうです。どうしても「早く家庭に戻してあげなければ」という方向で動くそうですが、そもそも家庭の問題が原因であることが多く、事態は複雑です。その施設は、壁の色が暖色で統一され、教室のフロアは天井が高く開放感があり、癒しの空間として中庭があり、サイコドラマや箱庭療法、カウンセリングなども取り入れていて、少年(女子のこともそう呼びます)の心と体の健康の回復のために工夫が凝らされた環境。しかし、ずっとここに置いておくわけにはいかないというジレンマがあるようでした。視察をさせて頂いた印象では、ここに入所する一番の目的は「罰として」というよりは、傷ついた心の癒し、体の健康の回復、自己表現や言語を通して、より健全に人間関係を取結ぶ能力の獲得、という部分が大きいように思いました。それを充分に達成するには、短期で5カ月、長期で10カ月という期間よりも、もうすこし長くいてもよいのではないかと、個人的には感じてしまいました。

入所者の健康状態
施設を案内してくださった次長さんは素朴なたたずまいの男性で、小さな声で淡々と重い話をされる誠実な語り部でした。視察にきたPTAの母親たちは(私もふくめ)どんな顔をして聴いたらよいかわからないといった複雑な表情を浮かべていました。施設内には治療を受けられる医務室があるのですが、それは入所してくる女子の多くが病を患っているということで、摂食障害、アレルギーなどもあるが、多くの場合、性病とのこと。

入所事由の内訳
窃盗3、傷害暴行8、恐喝3、覚醒剤1、道路交通法違反0、その他5、ぐ犯5、これに加えて薬物の問題も。

薬物指導のプログラム
近年、薬物を断つことが非常に難しいという問題があり、今年の秋から、全国何か所かで3ヶ月の薬物指導の集中プログラムが始まるそうです。

保護者との面会
保護者との面会では、顔をみるなりつかみ掛かるとか、話していて激昂してしまい、もっていたペットボトルを投げつけるなどの行為も珍しくなく、その場合、まずは対面せずに、別室で電話で話すところから始めるそうです。そうすると、落ち着いて1時間くらい話せるということもある、と。一方、運動会や学習発表会などの行事に保護者を呼んだものの、「来る」と約束しながらも来ない保護者がいたりそんな時の子どもへの寄り添いも職員の重要な仕事。きけばきくほど子どもの問題というよりも身近な大人の問題と思わざるを得ない。でもその大人も、かつては子どもだったという堂々巡り。

保護者のエピソード
入所者の保護者向けに施設の案内をしていた所、プールの所で泣き出した母親がいたそうです。話をきくと、入所している娘さんは水泳が好きで都大会で記録を競えるほどだったということでした。ここでも泳げることを知ってその母親は泣き崩れたと。次長さんのやさしく穏やかな語り口に、見学者の私たちはますますどんな顔をしたらよいかわからず複雑な表情をうかべるばかりでした。

地域社会とのつながり
その施設には、ボランティアの人が、入所している少年(女子のこともそう呼ぶ)の話し相手として通ってくれたり、絵手紙を教えにきてくれたり、盆踊りに参加したりと、地域の人々が様々なかたちで協力してくれているそうですが、一方で、まだまだ地域の人の理解は課題だそうです。あるときは、近くに引越してきたばかりだという人が、血相を変えて受付にやってきて「お宅は少年院だそうだけど脱走とかないんですか!このへんは安全なんですか」なんて不躾なことを訊かれたこともあるそうです。

質疑応答
Q:仮退院、保護観察を経て、また最処分になる子どもはどのくらいいるのか?
A:50人に対して7人(14%

Q:職員のバックグラウンドは?
A:福祉、社会学、心理学といった科目のある法務教官採用試験というのを受ける。集合研修も3カ月、6カ月と厳しい研修があるそうで、ここの子どもたちの生活より厳しいかもしれない。

Q:職員は出産しても仕事を続けるか
A:国家公務員なので、産休育休は完備。現在も6人もの職員が育休をとっているそう。そのため、中堅層の入れ替わりがはげしく、職員の年齢層が二極化してしまうのは悩みとのこと。