2013年10月2日水曜日

高校時代2

高校時代のこと、もう少しだけ、書き残しておきたいと思います。

昨日はちょっと優等生的すぎたので、暗黒面もすこし。世界平和というAFSのビジョンに感動して、という昨日の話にウソはないのですが、私の留学のもうひとつのモチベーションは「日本の高校から離れたかった」というのがありました。

偏差値の高い公立の女子校での、テスト前に「私、全然勉強してないよーどうしようー!」(ほんとはめっちゃしてる)とかいって牽制しあう感じとか、「あの人は社会2科目勉強してるからぜったい東大目指してるよ」(ほっとけよ!)みたいな噂話とか、なんだか自尊心とコンプレックスの入り交じる女子特有の腹の探り合いみたいな会話に、ちょっとうんざりしてしまって、こういうのがない世界ってないのかなぁと思ったのが海外の高校に留学する動機でもありました。

オーストラリアでは、ホストファミリーをチェンジしたりという事情もあり、思いがけず3つの高校を経験しました。ミッション系の女子校に2ヶ月ほど、公立の女子校に3ヶ月ほど、そして、私立の共学に5ヶ月ほど通ったのですが、やっぱりどこへいっても日本に比べたら女子がサバサバしていて、気持ちがよかった。勉強とか成績に対しても、ずいぶんとおおらかで、人の成績はそれほど気にしないし、みんなひとりひとりが自分のやるべきことをやっている、というかんじ。そういう空気はとても私好みでした。

帰国してから、1学年下のクラスに編入して高2の3学期からやりなおしたのですが、B'zのヘッズを名乗るコが私の前の席に座っていて、休み時間には、始まったばかりで大人気だというアニメのちびまるこちゃんの主題歌を「ぴーひゃらぴーひゃら」って口ずさんでいて、だいぶカルチャーショックをうけました゚゚(´O`)°゚。

オーストラリアではDeee-LiteとかThe B-52'sとかが流行っていて、彼らのカッコいいミュージックビデオがテレビでしょっちゅう流れていたのですが、日本の田舎の高校では知ってるコはほとんどいなくて…。まだネットとかなかったしね…。それにしてもピーヒャラピーヒャラにはびっくりしたなぁ…。でも席が近いというだけのご縁で、とっても親切にしてもらい感謝しています。

 


ま、ぴーひゃらぴーひゃらは、全然かまわないのですが、そんなやりなおしの高校2年生の3学期、同学年の友達はもうすぐ卒業という時期、放課後に図書館で勉強していたら、以前のクラスメイトが「帰ってきたんだ〜」と話しかけてきてくれて、何か言いたそうにしていて。そして、推薦で●●大に受かったということを自分から言って来て、びっくりしました。ほかにも、誰々ちゃんがどこ大に受かったとか落ちたとか、そういう噂話が飛び交っていて、私が苦手とする、あの女子校の空気、やっぱり健在だった…

周囲が全員1学年後輩という環境のなか、高3の1年間は、なんとなーくみんな私に気をつかっているのを感じつつ、大学受験の勉強を脇目も振らずやっていて、友達とつるむこともなく、本当に愛想のわるいマイペースな生徒でした。

一方で、まだルーズソックスが流行っていなかった日本で、オーストラリアで覚えたルーズソックスの履き方を、ちょっとだけその高校のなかだけで流行らせたりは、しました。あと制服のスカートも膝上くらいまでは切りました。

結局最後まであんまりなじめなかった日本の高校。入学時の同級生より一年遅れで卒業して、大学に合格したとき、本当にびっくりしたのは、あまり喋ったことのなかった元同級生から電話がかかってきたり、話しかけられたりしたことでした。帰国してから時間がなかったので受験は東大の文Ⅲに絞って集中して勉強したのですが、受かったら、予想以上の反響があり、面食らいました。

東大は文系でも2次試験で数学があり、社会も地理、日本史、世界史のなかから2科目選ばなければならないのですが「数学もやったんだぁ」「社会は何と何で受験したの?」とか、それほど親しくなかった同級生に訊かれて、本当にびっくりしたというか、なんというか、苦笑しながら、天を仰いでしまいました。

というのも、私は留学前は全然、成績優秀者ではなく、全く目立たない生徒だったので…「よく1年でそこまでやったよね、成績そんなによくなかったあなたが、いったいぜんたいどうやって?」というようなニュアンスで興味本位で話かけてくるのがもう、みえみえというか…。そういうのにも、心底うんざりしてしまったのでした。

…と、今日は、だいぶ、ぼやきばかりになってしまったので、最後にいい話をひとつだけ。

オーストラリアに発つ前のオリエンテーション合宿で、新たに覚えた言葉がありました。
それは「判断留保の能力」という言葉です。合宿中に、何度も出て来た言葉でした。

これはあとで知ったのですが、哲学の用語だったのでした。
"suspension of judgment“「判断を留保すること」

自分と異なる文化や価値観に触れたときに、判断を急がずに、それをいったんニュートラルに観察するということが求められる、というのは、実際に海外で暮らしてみてリアルにわかりました。

ただ、高校生の当時は、本当にその「判断留保の能力」が身に付いたのかどうか、自分では自信がありませんでした。

でも、それから20年以上経って、自分のたどってきた道を振り返ると、「常識」や「慣例」を疑う、という姿勢は自然と徹底していたように思います。

「普通はそういうものでしょ」と一般的に言われていることを、「そんなもんだよね」と妥協せずに、「そうなのかな」「そうでもないんじゃない?」「てか、普通ってなんだよ?」と、しつこく追求してきたともいえます。


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