2013年10月3日木曜日

大学時代1

7期目となるマドレボニータの新年度10/1から書き始めたこの「マドレボニータの軌跡」シリーズ、15年の歴史を語る前に、そのルーツとなる自分のバックグラウンドを高校時代までさかのぼって書いてみています。3日目の今日は大学時代のことを書きます。今おもいかえすと、大学時代に興味の赴くままに勉強してきたことが、マドレボニータの活動のそのまますっごく役立っている!めぐりめぐって、好きなことを仕事にできている…

なんて、なんて、今だから言えることであって、ここまでの道のりは、そんなに誉められたものはありません。東大の文Ⅲに入ったときには、進路はまったく決めておらず、とにかく自分の関心の赴くままに行動していました。蓮見重彦先生の映画の授業や、柴田元幸先生や佐藤良明先生のアメリカ文学やカルチャーの授業、内野儀先生の演劇の授業や、文化人類学の船曳健夫先生のゼミなどで、様々なスタイルの芸術に触れ、身体をつかった芸術や、人間の心と体のつながりに関心を持ちました。

大学の外では、ワハハ本舗のクリスマス公演(今はなき新宿のシアターアプルで)のバックダンサーをやったり、麿赤児ひきいる大駱駝艦の夏合宿に参加したりもしました。この合宿での経験は、自分自身の「体への関心」をより強めることになり、さらには、今でもマドレボニータの重要なテーマである「体と心の関係」への興味にもつながっていきました。

3年生から文学部の美学芸術学科に進学し、卒論のテーマは「身体論」。大学の外では、ダンスやヨガ、ヒーリングなどのワークショップに参加し、体を動かす面白さ、それによって変化する心の状態にも強い関心を引き続き持ちました。

卒業後の進路として、新卒で企業に就職するという選択肢がどうしてもしっくり来ず、もっと体のことを研究してみたいと、駒場の生命環境系の身体運動科学という科の大学院を夏休みに受験しました。入試問題をとりよせたのが5月、試験本番まで4カ月しかなく、それまでに、独学で解剖学や運動生理学を勉強しなければなりませんでした。あと、英語もありましたが、それは学部の入試よりも簡単だったので、受験勉強は専門科目に集中させました。

まずは、本郷通りの医学系の本屋さんで専門科目の教科書を買い込みましたが、とてもマニアックな分野なので、大学受験のときのような問題集が売っていない…。しかたがないので、ノートに自分で問題をつくって、独自の問題集をつくり、それを何度も繰り返して、知識を身につけていきました。筋肉や骨の解剖図については、トレーシングペーパーで解剖図をトレースして実際に手を動かしながら学びました。部屋中に、筋肉や骨の絵が書かれた紙を貼り、いつも目にしながら覚えました。そんな私の部屋に遊びに来た友達は、解剖図だらけの私の部屋をみて、半笑いで絶句していましたが…次の瞬間には「本気なんだね」とねぎらってくれました。

このときに身につけた解剖学や運動生理学の知識は、産後プログラムを開発するときにもおおいに役立ち、めぐりめぐって今の活動にも活かされています。

大学院での挫折

大学院に進学し、将来は研究者になるという進路(東大の体育教師になって、体育の授業をもっと面白いものにしたい、なんて野望もありました)をイメージしていたのですが、修士1年めで早くも挫折を味わいました。心と体のつながりに関心があるといっても、豊富な現場や経験をもっているわけでもなく、その関心は研究者になるにはあまりにも漠然としすぎていて、その程度で修士論文をまとめるのは虚しく感じました。また、研究が何かのために役立っているという手応えも感じられず、そうやって思い悩んでいたら、虫垂炎になってしまいました。そして腹膜炎が併発してしまい、1カ月くらい入院していました。からだは正直。自分が思い描いていたキャリアが早々に「違う…」となり、だからといって別の道も思いつかず、本当にどん詰まりでした。

そんな私を見かねた指導教官の小林寛道先生が、ギリシャに行ってみない?と声をかけてくださいました。少し日本から離れて、頭を冷やしてきなさい、と。ちょうど、オリンピックスタディをテーマに世界中から大学院生が集まり、オリンピックについてディスカッションをし、研究発表をおこなうという2カ月の合宿があり、その参加者を募集しているというのです。「せっかく英語も話せるんだし」と言っていただき、参加させていただくことにしました。実は、卒論でも、東洋と西洋の身体観の違いやその歴史的背景、またオリンピックがそれに与えた影響、といったトピックも扱っていたので、その論考を携えて、日本から参加しました。

そこから、思いがけない方向に人生が展開していくのですが…

(つづく)

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